「死んだほうが楽」と思える状況から脱出し、幸せを掴んだ人のお話し

2019年4月末まで小さなカウンセリングサロンcocoro-style(当サロン)で経理を担当していた人のお話しです。

記事にすることは本人の許可を得ておりますが、災害に遭われた方には申し訳ありませんが記憶がフラッシュバックする恐れのある内容になっていますので閲覧にはくれぐれもご注意ください。

災害から立ち直り、最高の幸せを手に入れた彼女

1983年8月、素晴らしい両親のもとに生まれ、2011年6月に結婚を控えた婚約者もいました。
以降、その彼女をKさんと称します。

 

しかし、2011年3月11日14時46分18秒を境にKさんの幸せな人生は一変し、これ以上の底がないドン底に落ちることになりました。

【東日本大震災】です。
東北地方太平洋沖地震、3.11大震災など多くの名称がありますが、この記事では【東日本大震災】で統一します。

 

Kさんは自宅から車で45分かかる職場で働いていたので無事だったんですが、自宅にいた両親とペット、彼氏(当時の婚約者)は津波にのまれ今もまだ行方はわからないままです。メディアでは「行方不明」という言葉を使ってますが、このときKさんは家族と婚約者の死を悟ったようです。

私には想像もつかない、想像すらできない絶望感だとか喪失感だと思います。
いや、簡単に『想像』なんて言葉を使うことも躊躇ってしまいます。

 

家族と婚約者に置いていかれ、ライフラインが完全に停止した仙台。
Kさんは「どうすればみんなの後を追えるか?」と自問自答を何度も何度も繰り返してたそうです。

けど、Kさんは強い人です。
自問自答の末、「私が後を追うと、両親と婚約者の思い出を持つ人がこの世からひとり減ってしまう」という答えにたどり着き、立ち上がり、歩きだしました。
文字どおり、生まれ育った仙台を後にし、東京に向けて歩き出しもしました。

 

Kさんは私がエネルギーワークを生業にしていたころの教え子さんです。

震災当時の私は『あぁ、Kさん仙台やけど大丈夫なんかな?』って感じで、何度かメールしたんですが返信がなく『メールの返信してる場合ちゃうんやろな』って思ってました。今思えばほんと呑気だったと後悔してます。

 

東日本大震災から43日が経った4月23日の午前8時30分。公衆電話からの着電。
『こんな朝早くから誰やねん!』と思いつつも電話に出るとKさんからでした。

Kさんの声のトーンで事の重大さがわかったので、『3時間で行くからそこで待ってて!』と声をかけ、現地点だけ聞きすぐに東京に向かいました。

12時を少し過ぎ、ようやくKさんと会えました。
教え子時代はメールのやり取りだけで面識はありませんでしたが、ひとめ見ただけでKさんだとわかりました。

今だから口に出せるんですが、そのときのKさんはボロボロに擦り切れた雑巾のようで、生きる覇気をまったく感じることのできない木偶人形(でくにんぎょう)のよう。

とりあえずホテルの部屋を取り、お風呂に入るよう促し、『風呂場で変な気起こさんよな…』と不安もありましたが、お風呂に入ってるあいだにKさんが着れそうな着替え一式と消化の良さそうな食べ物を買い出しに行きました。
そのときのKさんのポケットには130円しかありませんでした。
電話があったとき、もしも留守電にしていたり、私が寝ぼけてとんちんかんな話しでもしてたらと思うとゾッとします。
それもあり今は留守電は使ってません。

 

Kさんによると、地元の親戚や友人知人とは連絡の取りようがなく、唯一、思い出したのが私の連絡先だったらしく、藁をも掴む想いで電話をかけたそうです。
何の希望も夢もなく、精も魂も尽き果てた状態で仙台から東京まで43日かけて歩いたKさんの生への執着には脱帽しかありません。

お風呂を終え、少し元気そうな見た目になったKさんを連れ、翌朝、大阪に向けて新幹線に乗りました。

 

大阪に着いたのはいいが住むところがない。

ということで、『とりあえずKさんの住まいが決まるまで同居したい』という話しを奥さんと子供たちにし、Kさんのことを前から知っていた奥さんは二つ返事で快諾してくれました。
それから約3ヶ月が過ぎ、『仕事でも探そうかな』と言ってきたので、私の目の届くところでという想いが強くあり『うちのサロン(現在のサロンに至る前の趣味的なサロンです)の経理してくれへん?』と頼みました。もともとKさんは金融機関で働いて、几帳面な性格なのでサロンの経理は合ってるかなと思ったんです。

 

我が家ではKさんが独り立ちするまでの1年半ぐらい『震災』『災害』『津波』は禁句でした。

独り立ちするまでの1年半が早いのか遅いのか私にもわかりません。

そのころには覇気も取り戻し、責任感が強いKさんは細かく売り上げを計算してくれるようになってました。

その後、サロンの起業にも深く携わってもらい、いろんな提案もしてくれるようになりました。
奥さんや子供たちとも気が合った様子で、『ちょっと静かにしてくれん?』と何度か言ったこともあります。

 

しかし、まだまだ闇を抱えるKさん。

わずか2年や3年で心の傷が癒えるわけがありません。天真爛漫に、元気に振る舞っているKさんを見てると辛くなります。
どれぐらい癒えたか?の私なりの尺度になりますが、冗談っぽく『カレシでも作れば?笑』でした。その反応である程度は心の癒えがわかる気がしました。

 

「カレシができたとして、天涯孤独って言いづらい」とKさん。

 

Kさんの心の奥底にある「天涯孤独」を解消するため、『我が家の子供になり』と話しました。奥さんも「家族になろうよ」と。子供たちも「おねえちゃんになって~」と。

理解ある家族に恵まれて良かった。

 

2016年12月20日、Kさんと養子縁組(普通養子縁組)を組みました。
戸籍面も精神面もひとつの家族になりました。『これでもう天涯孤独とは言えんな』です。この日から藤原のFさんですけど、混乱しないように養子縁組の届出は済んでますがKさんで統一します。

 

養子縁組をする少し前にKさんも含め家族全員で仙台に行ったんです。
どこに家が建っていたか思い出せないぐらい変わり果ててたそうです。
もちろんご近所さんの姿もありませんし、限られた時間では友だちを探しても見つかりませんでした。
当時の婚約者の家には気持ち的に近づけない様子で『まだまだ心の傷が癒えるまで時間が必要やな』という印象。

そのときの道中の会話で、『Kさんには好きな人がいてる』ということを感じました。

 

しかし
「もし婚約者が生きて戻ってきたら」という微かな期待?
「そんな状況で違う人を好きになった」という罪悪感?
「そんなわたしを受け入れてくれるのか?」という不安感?
「誰かを好きになると、また」という恐れ。

申し訳ない気持ちやいろんな感情が交錯してたんだと思います。

 

しかし、仙台に帰省したことで少しだけ整理がついた気配もありました。

 

それからも経理の仕事をそつなくこなしてたんですが、LINEをしても既読にならないことが増え、仕事が終わるとそそくさと帰ることも増えました。

人は誰かのために生きることに幸せを見い出しがちですが、自分のために生きようと意識が変わってきたのは良い兆候です。

 

そこからの彼女の好転ぶりは凄まじく、悟りを開いたかのように(達観したかのように)日を追うごとに変化していきました。

 

2018年の暮れにKさんから2019年3月末で退職したいと申し出があり、その経緯をきくと「結婚したい人がいる」とのことでした。

すべてを見せ、すべてを受け入れてくれる彼氏ができたんでしょう。
彼氏のすべてを見、すべてを受け入れる覚悟ができたんでしょう。

 

彼氏を紹介されましたが、ほんと素晴らしい人だと思います。

お互いがお互いを想い、お互いがお互いを尊重し合い、お互いがお互いを敬い合う。
「ラブラブ=愛し合ってる」と勘違いしてる今どきのおバカなカップルとはまったく違います。

 

2019年3月末。

 

Kさんと彼氏、新しい経理の女性、長女夫婦と子ども、次女、我が家の3人、総勢10人でマイクロバスを借りて9泊ほどの小旅行をしました。

行先は、地元のユニバから奥さんの生まれ故郷の新潟、Kさんの生まれ故郷の宮城県仙台市、帰り道に奈良で1泊してきました。

Kさんの大きな成長として、生家と元カレの家に行けたこと。
今の彼氏とキッチリお参りと結婚の報告ができたこと。

きっとご両親も元カレも安心されたことでしょう。

『仙台にお墓立てようか?』と聞いたんですが、「わたしの心にいつもいるからお墓なんかいらない」と返事がありました。

 

私も『形から入って粗末になるような、形式だけのお墓に意味はない』と思ってます。

 

引継ぎ作業も3月中に終えていたので、小旅行から帰ってすぐ、休む間もなくKさん夫婦は挙式のためハワイに飛び立ちました。

 

人はどれだけドン底に突き落とされても「這い上がる」という強い気持ちさえあれば、果てしない幸せを手に入れることができるというお手本のようなKさんのお話しでした。

 

Kさん、本当におめでとう。

辛かったことも、これからの幸せなことも、すべて定めだったのかもしれませんね。

 

この記事はすべてKさんに読んでもらったうえでアップしていますし、私独自の判断で表現をソフトなものに変更しています。

 

乱文乱筆があると思いますが最後まで読んでいただきありがとうございました。

rerioty